『夢』と『現実』

昨日、Twitterにて気になるつぶやきを見つけた。私は善し悪しの判断抜きに自分の心にひっかかった、自分の感度が『ピン!』とか『もやっ』とするツイートはメモ代わりにリツイート若しくはふぁぼる傾向にあり、今回もそうして、とりあえずぼんやり頭の片隅にそのつぶやきを遊ばせつつも、家事を片付け、風呂に入り、何時もと変わらないルーチンの末、眠りについた。

 

そして、今日なんとなくTwitterチェックをしていると、昨日気になったつぶやきに直接関連性があるかわからないけれど、私にとっては関連性を感じる別の人のつぶやきをたまたまみつけた。

 

両ツイートに共通するキーワードは、『夢・幻想』と『現実』。

 

一方は『現実』をふまえつつも『夢・幻想』を肯定し、もう一方はどちらかというと『夢・幻想』に否定的で、超『現実』重視。

 

なるほど、面白いなーと思った。

 

『夢・幻想』と『現実』。

 

『こーしたい、あーなりたい』と想像をふくらませ『夢』をみることが、その『夢』を『現実』にする種になる。一方で、その想像するきっかけは『現実』を生きるなかで生まれる。

 

『鶏が先か卵が先か』ではないけれど、其れに似た禅問答みたいな話に思える。

 

『咲くから枯れる』のか『枯れたから種ができ咲く』のか。

 

『食べたから排泄する』のか『排泄したからお腹が空き食べる』のか。

 

『生まれるから死ぬ』のか『死ぬから生まれ変わる』のか。

 

うーむ。。やはり禅問答(笑)

 

ウロボロスの蛇じゃないけど、ただ一つに内包されている真逆が”同時に在る”だけで、切り分けるか切り分けないかなだけなのかもしれない。切り分けた時、切り口の一方が『夢』で、もう一方が『現実』という名を名乗りだす、ただそんな感じかもしれない。

 

『夢』と『現実』を考えるときいつも思い出すのが漫画『BANANAFISH』文庫本第2巻のあとがきに掲載されていた俳優の渡辺えりさんのエッセイの一文。好きなので最後に引用して〆としましょう。

 

 

「精神世界に泳ぎながらも、どうしようもない現実の力に押しつぶされ、あがき、はいつくばり、芝居を造り続けていた。夢見る力を得るためには、夢見の作業が現実逃避となってはならないと考え始めた頃だった。

 

現実から逃れるためではなく、きびしい現実を認識し自立するための夢想でなくては、生きて創造を続ける意味はないと考えていた。」

 

 

はてさて、今日も現実を生きて、想像=創造いたすとしましょう!