わかろうとすること

 

ぱっと手にとった池田晶子さんの著書のなかに、心に響く言葉を見つけたので、ご紹介したい。

 

 

『ーーーしかし、本当いうと、わからないものをわかることができるのは、じつは、「わかろう」という不断の意志でしかないのである。「わかろう」という意志のない人に、「わかる」ことは決してないのである。

 

ところで、「わかろう」という意志、これは何か。言うまでもない、優しさである。わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、他でもない、愛である。

 

君にはなんにもわかってない

といった、自らする線引きの非論理性と狡さとを私は憎んだ。それでどうしてほしいのよ。なら、世の中の皆が皆、君は私でないからわからないと言い合ってごらん。

 

わかる力は愛である。

えてして人は気づいていない、真の知力は愛する力であることを。』

池田晶子著 『残酷人生論』(毎日新聞社)

 

 

「わかる力は愛である」。

シンプルにしていい言葉だなーとつくづく思う。小難しくもなくずばりである。

 

今日はたまたま、「わかる力は愛である」なテーマの話題を見聞きする機会があった。

 

内戦で生活が不安定になったシリアの女性たちの収入源として、女性たちの作った刺繍を販売する活動をする元シリア在住日本人女性がテレビ番組にて、昔、シリアに留学し困っていた時、家族のようにおおらかに招き入れてもらい助けられたこと、そして今、難民としてトルコで過酷な生活を送る仲間のシリア人にむけて「忘れてないよといい続ける」ことの大切さを語られていた。

 

じわ〜んとした。知らない土地、仲間のいない場所での一からの暮らしの心細さと過酷さ。そんな時に何時でもおおらかに受け入れて助けてもらえる事や、離れていても想い続けていると励まされる事がどれだけ支えになるだろう。心が傷つき不安定な時の「大丈夫だよ」「忘れてないよ、応援しているよ」。そして、それを続けられること。シンプルにして本当に大事なことだなーとしみじみ思った。そしたら、いつか心を取り戻して元気がでて、自分の足でなんとか歩こうとする時には叱咤激励して送り出すこともできる。そしてただ信じて見守れる。

どんな時も、ずっと変わらず信頼し理解しようとするからできることだ。

 

自分はできているだろうか?

心にゆとりがなかったり、自分の事で精一杯だったりするとなかなか難しかったりするけれど、そんな優しさを自分も忘れないでいられたらなあと、改めて考える良い機会だった。

 

そして最近、見聞きする話題や報道、自分たちを取り巻く世間の風潮が、いじめ的構造をはらんでいてなんか陰湿でいやだな〜とかんじる事が多々ある。たしかに、倫理的に許されないスキャンダルやニュースもあるけれど、それでもみじめな想いや弱さや葛藤、みっともない過ちや失敗、愚かさ情けなさは大なり小なり誰しもが経験し、幾つになってもこれからも経験するかもしれないこと。

今まで散々、失敗・挫折・恥をかいてきた自分としては、他人事だからと上から目線で、馬鹿にしたり、嘲笑ったり、非難したりなど、とてもできないのだ(汗)

 

理想論かもしれない。それでも、池田さんの言葉のようにもう少し、寛容に許し合って、共感し合って、助け合って、支え合いながら生きていけたら、もっとずっといいのにな〜と思う。

 

 タイ語には「マイペンライ」という言葉がある。

「大丈夫・気にしない・心配しない」などを意味する、おおらかでちょっといい加減な、ずばりタイという国そのもののようなこの言葉を、昔よくタイに行っていた時耳にした。

 

今更ながら、とてもいい言葉だな〜とつくづく思うことがある。

いい意味で、今こそ「マイペンライ精神」、見習いタイものだ。 

(〆はダジャレ・・・汗)